2016年02月10日

 神も仏もあるものか。

 
 今朝の地元の新聞の小さな記事が目に留まった。「山形のマット死 遺族が再び提訴−賠償金支払われず」である。少し引用する。『1993年に山形県新庄市立明倫中学校1年の児玉有平さんが体育館用具室のマット内で死亡した事件をめぐり、民事訴訟で確定した損害賠償計約5760万円が支払われていないとして、遺族が9日までに元生徒3人に同額の賠償を求める訴訟を山形地裁に起こした』とある。

阿修羅
 それに対して『元生徒の代理人は取材に「そもそも無罪なので賠償金は支払えない。裁判で潔白を証明したい」と話した』である。弁護士が法治国家の根底を覆す言い草である。

暗雲
 20年以上も前の事件であるが、当時随分と話題になった中学生のいじめによる死亡事件なので覚えている人も多いだろう。経過はネットの山形新聞によると『県警は1、2年生の少年7人を傷害と監禁致死の容疑で逮捕、補導。少年審判で逮捕の3人は「無罪」に当たる不処分決定、補導の4人のうち3人は「有罪」に相当する保護処分となった。保護処分の3人は仙台高裁に抗告し、同高裁は棄却した上で7人全員の関与を指摘。3人の再抗告は最高裁で棄却された。
 その後、児玉さんの遺族が少年らに損害賠償を求めた民事裁判で山形地裁は7人全員のアリバイを認定、事実上「無罪」とされた。だが、仙台高裁は一転して全員が関与したと判断。最高裁は元少年らの上告を棄却し、「全員有罪」との結論で終局している』のである。

祈り
 実質の刑事裁判は勿論、民事裁判でも有罪・敗訴となった事件で損害賠償金を時効を迎えようとするほど長期間一切支払わずに、時効停止の訴訟を起こされたら「そもそも無罪」と言い張り「裁判で潔白を証明したい」とは何事か。これが通用するなら三審制を含め裁判制度そのものが意味を失う。こんな連中を相手にしなければならない困難と厄介さは尋常ではない。

想い
 遺族の遣り切れなさや悔しさ、絶望、悲しみと怒り、無常感や無限の喪失感を想うと言葉を失う。もし、この世に神か仏がいるのなら、残された被害者には慈悲ある救いを、加害者の罪には罰を、我らの原罪には赦しと安寧を。それ以上に一番無念の彼にせめての冥福を与えて下さい。

阿修羅
 それにつけても、最初から感じた卑しさとドス黒さ、いつになっても晴れない事件の陰湿さが生む心のざわつきと苛立ち、それに絡み付く山形県と新庄市への理屈抜きの嫌悪感は何事だろうか。
 

posted by 工房藤棚 at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言
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