2011年07月17日

人の痛み。

 
 他人の痛みを、いちいち自分の痛みとしていては生き難い。けれども、これは別である。

花


 週刊新潮26 7月7日号の「『原発ジプシー』著者が見た「福島原発」33年前と今」より。
 『 原発は年一度ほど運転を止めて各種機器類の点検・補修作業が法によって定められている。いわゆる「定検(定期検査)」とよばれるもので、この時期なると日本各地から大勢の労働者が呼び集められ、原発内でさまざまな作業に従事させられている。ひとくちに原発内といっても、そこは普通の労働環境ではない。放射性物質が充満した異常な空間なのだ。そしてそこに人間が立ち入るということは、放射線にわが身をさらすこと、つまり、<被ばく>することに他ならない。ローマ神話に出てくるヤーヌスにも似て原発もまた二つの顔をそなえていることを、働きはじめてすぐに私は痛感せずにいられなかった。科学技術の粋を集め安全このうえない発電施設としてさかんに喧伝されていた表の顔、そして二つめは、「被ばく者への門」という裏の秘められた顔だ。原発内に一度でも立ち入った者は、確実に放射線をあび、確実に被ばく者となる。言い換えれば、労働者を被ばく者にすることを前提として成り立っている発電システム、それが原発だった。』

花


 『 そこでの作業は、おもに人海戦術だ。線量の低い場所に労働者数名が待機していて、一人ずつ高線量エリアに飛び込んでゆき、警報器が鳴り出すまで作業し、規定量に達すると駆け出してきて、待機中の者と交代する。つまり原発におけるノルマは、労働時間でもなければ、作業量でもない。決められただけの放射線量をあびること、それこそが原発現場における掟だった。』

花


 そんな犠牲がなければ出来ないほどの電気を、皆が皆求めているとは思わない。自分の息子や娘には、絶対働かせたくない労働環境を許しておいて、何が繁栄だ。
 何時の時代でも、底辺で蠢かなければならない人はいる。けれども放射線の恐れに恐れる悲惨を先人は知らない。
 

posted by 工房藤棚 at 11:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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