何年も昔の話では無いのだが「CAST RADIX(ラディックス)」に、夢中になって取り組んだ。その情熱がどこから湧いてくるのかも知れないほど熱中した。
まだパズルの初心者だったが、何日も何日も飽きもせず、癇癪を起こすこともなく、がむしゃらに挑み続け、遂に成し遂げる喜びを知った。キャストパズルの魅力を教わった。
ただ、その固執はきっと何かから逃げていたのだろう。今となると過ぎた苦さだが、「何が切ないの」と問われ、言葉にできるのなら何も切なくない。
それにしても、使い込んだラディックスは随分と風格が出てきたものだ。黄銅色というより黄金色に輝き、擦り減って艶やかとなり、元はどんな処理がされていたのかさえ定かでなくなっている。
それが愛着を生み、覚束ない歩みであっても貴重な歴史であり、誇りでさえある。
世はデジタルの世界となった。レコードはCDとなり、テレビも地デジとなった。電話も黒電話を知る人は少なくなりつつあり、それを使っている日本人は希だ。
レコードにはCDでは表現できない深さがあったと声高に嘆いていた人が、今では、MP3で十分だなと意外なことを平気で言う。
我がキャスト ラディックスには、余裕があり、遊びがあり、気品があり、ユニークである。それは、デジタルの世界とは無縁で、自然から得た優しく柔らかな曲線を描く。そこに無駄な角はなく、人を安らかな癒しへと誘う。
そのテーマ「萌」には、色々な解釈があるが、やはり早蕨(さわらび)が似つかわしいだろう。
萌える蕨(わらび・早春の山菜)。芽吹く生命。むせかえるほどの緑。だが、何時までも伸び続ける命があるでもなし。
大地から収穫された蕨も、絡み合うとほどけない。不思議なほどにほどけない。自由なのに自由ではない。
普通の人に暫く試してもらい諦めた頃、颯爽と外すと手品かと驚かれる。
そして、ラディックスも変わった。大きくダイエットし、いや小型にと減量しスマートになった。新しいラディックスは、存在感や、躍動感、ダイナミックさや、ボリューム感は、随分とおとなしくなった。
少し小さくし過ぎかなとは思うが、理由あってのことだろう。また、過ぎた昔には戻れない。
パズルとしての魅力は変わらないし、ゲームレベル4では飛び抜けたポジションである。ただ、「CAST RADIX」と「CAST VORTEX」は、ゲームレベルをそれぞれプラス1した方が自然だし、親切な気がする。
そのヌメッとして暖かな存在感は、AkioYamamoto氏の面目躍如であり、「知る人ぞ知る」という玄人好みの控えめな位置を狙っているのかもしれない。
触れてこそ分かる「気」は、触れなければ分からない。所詮、Cx2かと侮っていたら、AはおろかBにも辿り着けない。
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