久しぶりに、本を手にとってワクワクした。期待に応えてくれそうな趣きがある。それが、かの講談社。新潮社でも文藝春秋でもなかったのは意外である。
山本夏彦翁が亡くなって、早9度目の春を迎えようとしているのだが、正真正銘の新刊という。
それは、「あとがき」によると『新聞や雑誌などに発表した数多くの文章の中で、単行本に収録されぬまま埋もれていた四十六編を選び一冊にしたもの』だからである。
寄せては返す波の音は、同じようで全く同じ音はない。機械的に、電気的に作られた音を何回も繰り返されると不愉快になる。けれども、波の音を一日中聞いていても不愉快にはならない。むしろ寛げる。それは「1/fのゆらぎ」と同じ理屈かもしれない。
ここには「自由」がある。一つ一つには、制約があっただろうが、週刊誌や月刊誌のような毎回毎回の締め切りではなかったのだろう。コラムの長さも多彩であり、それも新鮮である。
そして「勢い」がある。昭和34年のコラムがある。けれどもそれは古くない。「古いものこそ新しい」の典型である。
また山本夏彦翁の場合、古いものほど痛烈かつ痛快である。
内容は、「よくこれが残っていたな!」と驚かされる濃さである。そのうえ、一単行本としても自然な編集であり、「この一冊で丸ごと山本夏彦」と呼んでも過言でない厳選書となっている。
それが覗えるような2文を紹介したい。「そばやの風鈴」より。
『 わたしは今は数少ない「亭主関白」のひとりだと、わが細君に言われる。わたしにその自覚はさらさらないが、笑ったり一蹴したりして、からくもバランスを保てば、それが関白の位なら、情けない関白だが、甘んじてその位についておく。
一男一女が理想なら、親ばかは増えこそすれ、減りはしないだろう。一億親ばかになる日も近いだろう。
ばかにつける薬はないから、ああせよ、こうせよとすすめるつもりはない。その知恵もない。一男一女じゃ少なすぎる。生めよふやせよ地に満てよ、と言って聞くまいし、言うつもりもない。
けれども、わたしは計画的に産むと聞くといやな気がする。ことに妙齢の婦人から聞くと、その無神経と不遜に顔をそむける。』(昭和41年)
次は短く「大衆このエゴイスト」より。
『…寿司や酒の通みたいなことまで言う。
みんな人から聞いた言葉である。自分の言葉は一つもない。それでいて発声したのは自分だから、自分の言葉だと信じている。』(昭和43年)
それにつけても、山本夏彦翁にふさわしい絶妙なタイトルである。
posted by 工房藤棚 at 14:33
|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
山本夏彦