2017年03月27日

一寸先は闇か「出国した人は自力で対処を」。

 
 格安旅行会社「てるみくらぶ」が27日に東京地裁に破産を申請し認められたそうだ。負債額は151億円にのぼり、その会社のツアーを利用して海外渡航中の旅行者は約2500人という。今後の「出国した人は自力で対処を」は厳しい。

下り階段
 色々と言葉が浮かぶ。「安い物は高い物」。
 古人も知っていた。「安物買いの銭失い」。

冨士浅間神社
 生憎ながら「一寸先は闇」は人の世の常である。不意に浮かんだのは非情であるが、我が山本夏彦師がよく引用していた西洋の諺「ロバが旅にでたところで馬になって帰ってくるわけではない」。

新倉山浅間公園
 理不尽な仕打ちを受けた皆様が無事帰国できますよう心よりお祈り致します。
 

posted by 工房藤棚 at 22:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山本夏彦

2015年08月02日

三千世界を袈裟切りにした「傑作コラム集」。

 
 週刊新潮は、昭和31(1956)年出版社系初の週刊紙として創刊されたそうで、約60年で通巻3000号であり、今週はその記念特大号で特集は『三千世界を袈裟切りにした「傑作コラム集」』である。

苔
 それは鬼籍に入った達人「山口瞳」「山本夏彦」によるもので、■「男性自身」傑作選三編、■「夏彦の写真コラム」傑作選六編であり、前書きで『両達人の「精神」は今も週刊新潮の中に脈々と息づいている』と紹介している。

苔
 一昔以上前に亡くなられた山本夏彦さんが話題となることは今では殆どなく、ワックから出版されていた『山本夏彦とその時代』シリーズも、2012年11月の「戦前まっ暗のうそ」4巻を最後に発行が途切れている。10巻の「夢想庵物語」まで予告されていたのだが、今後の見通しは非常に暗いだろう。

苔
 氏が生前よく書かれていた「読者は作者の遺体がつめたくなると同時に去るから蚤に似ている」は、半分以上謙遜が含まれていると考えていたのだが、その洞察の鋭さは悲しい事実ながら辛口名人の面目躍如であろう。

蘭
 その六編は厳選集に相応しいもので、「崩御か薨去か死去か」から一部を紹介し、新しい読者が興味を示すことを期待したい。
 『 よかれあしかれジャーナリズムは時代をさきどりするものである。すでに社会主義は時代遅れである。それは敏感な記者なら知っているはずである。私はジャーナリズムを嫌悪しかつ軽蔑しながらなおなが年そのなかで衣食してきたものである。だから、せめて自分でも信じていないことを書くなと言いたい』。
 

posted by 工房藤棚 at 12:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山本夏彦

2014年10月23日

山本夏彦さんが亡くなって12回目の秋。

 
 山本夏彦翁が亡くなられたのは、平成14年10月23日だったので、それから12回目の秋を迎えた。俗にいう13回忌である。しみじみと月日の経つのは早いものだと感慨もひとしおである。その年に生まれた子が立派な中学生となる年輪を重ねたのだから決して短いものではない。

事任本宮
 「山本夏彦翁とは誰?」、十年一昔と言うように若い世代では知らない人も多くなってきているのだろう。だが、山本夏彦翁といえば、真っ先に浮かぶのは「週刊新潮」の「夏彦写真コラム」か、文藝春秋の今は休刊となっている「諸君!」の巻末コラム「笑わぬでもなし」である。それらの出版社は、今話題の朝日新聞とは相容れぬ仲であり、時代が大きく廻っているのを実感させられる。

事任神社
 その文藝春秋−週刊文春・臨時増刊の『文藝春秋が報じた「失敗の本質」「朝日新聞」は日本に必要か』の「編集後記」は次のように始まる。
『 かって山本夏彦は、こう書きました。
<朝鮮人慰安婦のことを思えば夜もねられぬというたぐいの記事が、ある時期毎日のように出た。ことに朝日新聞に出た。四十なん年枕を高くして寝ていたのに急に眠れなくなったのである。新聞はその声を集めてずいぶん嬉しそうである。良心と正義を売物にするのは最も恥ずべきことだと知らないのである。>
 山本翁が今の朝日のあり様を見たら、どんな文章を世に出したのでしょうか―。』

事任神社
 右とか左ではなく、また、辛口とか辛辣だけでは言い表せないのは当然として、苦い嗤いや卓越した機知を秘めたコラムを越える者は、12回の秋を迎えても現れなかったと言わざるを得ないのだろう。

事任神社
 そうして、同じく「編集後記」は締めの前にこう記す。
『<私は断言する。新聞は次に来たるべき国難に際して再び三たび国民をあやまってあらぬところへつれ去るだろう。>
 山本翁がそう看破したのは平成元(1989)年のこと。いままさにその言葉が真に迫ります。』

事任本宮
 山本夏彦さんは、古くて新しいコラムニストである。時間の波に揉まれても色褪せない箴言は時代を超えて読まれ続けて欲しいものだと思うと共に、柿の木の枯葉が音も無く落ちるのを眺めながら、人の生死も漠然と身に染みてもの悲しげな秋を過ごした。
 

posted by 工房藤棚 at 19:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山本夏彦

2011年02月19日

山本夏彦翁の新刊「とかくこの世はダメとムダ」。その1

 
 久しぶりに、本を手にとってワクワクした。期待に応えてくれそうな趣きがある。それが、かの講談社。新潮社でも文藝春秋でもなかったのは意外である。
 山本夏彦翁が亡くなって、早9度目の春を迎えようとしているのだが、正真正銘の新刊という。
 それは、「あとがき」によると『新聞や雑誌などに発表した数多くの文章の中で、単行本に収録されぬまま埋もれていた四十六編を選び一冊にしたもの』だからである。

石段


 寄せては返す波の音は、同じようで全く同じ音はない。機械的に、電気的に作られた音を何回も繰り返されると不愉快になる。けれども、波の音を一日中聞いていても不愉快にはならない。むしろ寛げる。それは「1/fのゆらぎ」と同じ理屈かもしれない。

雪


 ここには「自由」がある。一つ一つには、制約があっただろうが、週刊誌や月刊誌のような毎回毎回の締め切りではなかったのだろう。コラムの長さも多彩であり、それも新鮮である。

雪


 そして「勢い」がある。昭和34年のコラムがある。けれどもそれは古くない。「古いものこそ新しい」の典型である。
 また山本夏彦翁の場合、古いものほど痛烈かつ痛快である。

雪


 内容は、「よくこれが残っていたな!」と驚かされる濃さである。そのうえ、一単行本としても自然な編集であり、「この一冊で丸ごと山本夏彦」と呼んでも過言でない厳選書となっている。

石段


 それが覗えるような2文を紹介したい。「そばやの風鈴」より。
『 わたしは今は数少ない「亭主関白」のひとりだと、わが細君に言われる。わたしにその自覚はさらさらないが、笑ったり一蹴したりして、からくもバランスを保てば、それが関白の位なら、情けない関白だが、甘んじてその位についておく。
 一男一女が理想なら、親ばかは増えこそすれ、減りはしないだろう。一億親ばかになる日も近いだろう。
 ばかにつける薬はないから、ああせよ、こうせよとすすめるつもりはない。その知恵もない。一男一女じゃ少なすぎる。生めよふやせよ地に満てよ、と言って聞くまいし、言うつもりもない。
 けれども、わたしは計画的に産むと聞くといやな気がする。ことに妙齢の婦人から聞くと、その無神経と不遜に顔をそむける。』(昭和41年)

ダム


 次は短く「大衆このエゴイスト」より。
『…寿司や酒の通みたいなことまで言う。
 みんな人から聞いた言葉である。自分の言葉は一つもない。それでいて発声したのは自分だから、自分の言葉だと信じている。』(昭和43年)

杉森


 それにつけても、山本夏彦翁にふさわしい絶妙なタイトルである。

 


 

posted by 工房藤棚 at 14:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山本夏彦

2010年10月23日

季節巡って、八度目の秋。


 秋になると、もの悲しくなるのは、秋だからだけではないような気がする。

薬師寺 東塔


 季節が巡り、年を経て、また本格的な秋である。本当に厳しい夏であったが、やはり秋は秋である。

唐招提寺にて


 父は秋に亡くなった。もう、初冬といってもいい時期だった。そして、人生の師と仰いだ名コラムニスト山本夏彦翁が亡くなったのも秋である。そう、八度目の秋である。

唐招提寺にて


 残念ながら、今でも、こんなに明晰で切れの良いコラムには巡り会えない。

薬師寺 東塔


 自戒の念をこめて、『「夏彦の写真コラム」傑作選2@阿川佐和子』−「この世は一片の細菌培養肉」より。
 『何度もいうが江戸の町人は、役人はワイロを取りたがるもの也、責むるはヤボ也、いくら取替えても同じこと也と笑った。どうです人間というものをよく見ているじゃありませんか、新聞はあばいて読者をつかぬまの正義漢にする、自分がその席に坐れば必ずすることを、坐れないばかりにしなかったのが正義か、居丈高になって責める声には力がない。』

薬師寺 東塔


 視点は巡り、年を経て、また本格的な秋である。
 

posted by 工房藤棚 at 15:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山本夏彦
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